「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」
これって、誰の何から引用した文章だっけ?と空では思い出せなかったのだけど、ググってロシアの文豪トルストイ「アンナ・カレーニナ」冒頭文であることがわかりました。
人は幸福になることを望むけれど、そのゴールとなる形には多くのパターンがあるわけではなく、かわりに不幸な状態にはいろんなパターンが存在する。
言われてみれば、確かにそうかも、と納得しちゃう名言です。
年の初めは、今年は幸せに過ごしたいという願いとともに始まるものですが、なんだかんだ色々あるのが人生ってものですよね。
幸せじゃないことが、イコール不幸とは限らないけれど、不幸につきまとう「憂うつな気分」を味わうことがクリエイティブにつながる、と考えれば、意味あることだと割り切れるかもしれません。
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人間の創造性は、不幸となんらか関係がある
テクノロジー・ライフマガジン「WIRED」に『不幸なほうが人の創造性は豊かになるのか:心理学の研究結果』という記事があります。
幸せとはいえない人生をたどった偉大な芸術家や、「苦悩や障害が知性を導き、魂を育む」と言った英国の詩人もいることから、このことを裏付ける心理実験を行い、「悲しさはわれわれを、より注意深くし、細部に関心をもたせ、焦点を合わせやすくする」ことがわかったと伝えています。
幸せな状態だと感じた瞬間から、人はその状態の維持に集中しちゃうかもしれない。満足しちゃったら、そこで止まってしまう。
幸せに至る途中段階にこそ、上を目指す向上心と高揚感が味わえる。
あくなき向上心を持ち続け、チャレンジや努力を重ねるには、幸福になっちゃいけないのかも。
幸せでない憂うつな気分に陥っている時、そこから抜け出したくて、もがいてしまいます。
人に当たり散らしてしまう人もいるでしょうけど、今の自分の気持ちを何かにぶつけて、「形」にすることで昇華するケースもあるはずです。
不幸は昇華させて成仏させよう
「昇華」って、中学の保険・体育の教科書に出てきましたよね。
ムラムラしたら、スポーツや勉強に打ち込め!って教師から言われてましたっけ。
昇華(しょうか)
精神分析学用語。性的衝動ないしそのエネルギーを,性的でない,社会的に受入れられるような,なんらかの他の活動の形で表現するようにさせる無意識的過程。芸術,宗教などの文化現象もこの働きによるとする。さらに一般的には,低次の要求の満足を,より高次な要求の満足により置き換えることをさす。
必ずしもムラムラではなく、失恋や片思い、なにかしらの失敗、うまくいかない現実が着火点となって、今の気持ちを吐き出したいという思いに駆られる経験、僕にもあります。
急に詩人になっちゃったりして。
しょげてる奴がいたら、「今の気持ちを歌詞にしてもいいんだよ」なんて慰めたこともありました。
なにかうまくいかない場合、なんでなんだ!っていろいろ考えますよね。原因を探り、本来叶うはずだった願望を、バーチャルで妄想したりしちゃいます。
ハッピーよりもアンハッピーなほうが共感しやすいかも
少し前まで、歌詞の内容って、失恋と片思いの気持ちを綴ったものが多かったように思います。
昭和歌謡曲に至っては、大人のいけない恋心とかもありましたよね。
それが、いつから励ましや願い、といった人の共感に重点を置いた歌詞が中心になったんだっけ。
Mr.Childrenあたりからかな?
現状を憂いながらも、その思いを直球で吐き出すのではなく、共感できる形に持っていく。
反面、簡単に気持ちを吐き出せるSNSには、直球な言葉が投げ出されて行く。
作品とするか、しないか、で吐け口の方法が棲み分けられています。
どちらにしても、ハッピーよりもアンハッピーなほうが、人の気持ちを動かす力があるように思います。ネガティブなことって、人の興味を引きやすいですから。ハッピーであっても、ネガティブな見方をすると、妬みを買う可能性がありますからね。
他人の不幸は蜜の味だから?素直にエモさを感じることで共感がしやすいから?
不幸な形のほうがバリエーションが多く、誰かしらの体験と類似性を結びやすいのかもしれません。
作品作りには冷静さと集中力が必要
僕はデザイナーで、見た人がワクワクする形を求められることが多いです。
アート作品なら、問題を投げかけるような一見不快に感じるビジュアルでも認められますが、商業デザインでそれはご法度。見た人のエモーションを動かすにも、ネガティブな表現はまず避けなければなりません。
楽しみながら作ったものは、その楽しさが伝わるものですが、やたらハイな状態の場合は、表現のルールが緩んでしまい、御法度なエリアに踏み入ってしまうことがあります。
どちらかというと、気分が落ち気味なほうが、冷静に受け手の気持ちを考慮したものを作れることが多いのです。冷静さと集中力が、表現をより高めていくには必要だと経験から知っています。
ということから、先に紹介した「WIRED」の記事にある心理実験結果で、
「悲しさはわれわれを、より注意深くし、細部に関心をもたせ、焦点を合わせやすくする」
というのは、なるほどそうかもしれないと実感しました。
憂うつ気分による主観的な感性や、粘着質的に思考の視野を狭くする傾向が、作品にある種の明確さを与えるのかもしれません。
創造に向かうための気力があれば、という断り書きをあえて付けさせてもらいますが。
転んでもタダでは起きない気持ちで
多くを望まず、自分にとって等身大の現実を受け入れることで、幸せであることを実感することはとても大切なことだと思います。
「己を知る」ってことは、さまざまなことに感謝の気持ちも持つことができます。
そのような手の届く幸福感と、バリエーションの少ない幸福の形とされるものは、違うものかもしれません。どちらかは関係なく、ともかく自分をいい状態に置くことは、望んでやっていきたいです。
また、幸福な状態でなくとも、その時には別の能力が発揮できる状態だと捉えると、やみくもに落ち込む必要もなくなるかなって。
冷静さと集中力、強い願望によって、表現することに役立てていきたいと思うのです。
転んでもタダでは起きない。ってしたたかな気持ちを持つことは、強さに通じるかなって。
ただし、逃げ道が1つもない不幸な状態に陥ってしまうと、表現どころではなく、うつの深みに囚われてしまうでしょう。退路は確保しておく。それは重要なこと。
そのうえで、今年はアップダウンの状況と、うまく付き合っていけたらなぁと思っています。
SNSやブログのネタができた、という程度のアンハッピーに留めておきたいな。