うつ病になって、はじめて「心」=「脳」なのかという自問自答をしました。
うつ病の治療は、薬を飲んで心と体を休め、脳のトラブルを時間をかけて修復していきます。熱のないインフルエンザにかかったかのような体のだるさ、無気力感、ネガティブな方向にしか行かない思考、それらは「脳」が問題を起こしていると、すぐには結びつけられなかったのです。
「心」は、もっとあいまいな目に見えないエネルギー体のようなもの、そう漠然と思っていました。
それが薬を飲んで症状が落ち着いていく現実に向き合うと、否応なく「心」というのは「脳」の問題なのかと実感した次第です。
前野隆司 著 :
脳はなぜ「心」を作ったのか
ー「私」の謎を解く受動意識仮説
脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫) [Amazonで見る]
この本は、2004年11月に刊行されたものですが、つい最近になって存在を知りました。手に取ったのは、2010年11月にちくま文庫から出たバージョンです。
ご存知の方にはものすごい今更感かと思いますが、今回はこの本の内容と、感想を綴っていきます。
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「私」の謎を解く受動意識仮説
意識とは何か。意識はなぜあるのか。死んだら「心」はどうなるのか。動物は心を持つのか。ロボットの心を作ることはできるのかーーー子どもの頃からの疑問を持ち続けた著者は、科学者になってその謎を解明した。「人の『意識』とは、心の中でコントロールするものではなく、「無意識」がやったことを後で把握するための装置にすぎない。」この「受動意識仮説」が正しいとすれば、将来ロボットも心を持てるのではないか?という夢が広がる本。
(裏表紙に書かれた概要より引用)
以下、本の内容をダイジェストでまとめてみます。あくまでダイジェストですから、ご興味ありましたら、ぜひ本を手にとってご一読ください。
心の働き
心の働きは「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」そして「無意識」から成るとして、論が展開していきます。
- 知:五感からの知覚、思考
- 情:感情、欲
- 意:意図、決断
- 記憶と学習:学習、記憶している内容の更新
- 意識:自己意識、エピソード記憶を生成
- 無意識
このうち1〜3の「知情意」は、脳の中でそれぞれ担う部位がすでにわかっている。
「知情意」と4.記憶と学習については、すでにコンピュータでも行われている処理。
5.の「意識」は、私が私であるという認識のこと。
そして「意識」とは別に「無意識」が存在している。
たとえば立食パーティの場にいる時、立ってバランスをとっていること、片手にワイングラスを持っていること、ざわめきの中から話者の話を抽出して聞き分け、相手の目に自分の目を合わせることを同時に意識していることはない。意識していないものは無意識がうまく処理していることになる。
6.「無意識」のことを、この本では働き者の小びとと比喩している。
小びとといっても、「意識」や「自己意識」が持っている小さな生き物ではなく、独立して各々の処理をこなすモジュールのことらしい。小びと=ニューラルネットワークと考えていいとのこと。
「意識」=「私」は主体的に考えているわけではない
私が私であるという意識は、心の中心にあって、「知情意」「記憶と学習」で無意識の小びとが処理しているさまざまな情報を、隅から隅まで見渡してコントロールしているように思える。
瞬間瞬間、小びとのホットな働きにスポットライトを照て、それを意識として認識していると。
これを「心の天動説」と呼んでいる。
対して、著者の前野氏が提唱しているのは「心の地動説」。
意識は心の中心にいるまとめ役ではなく、小びとたちが好き勝手にやっていること、多数決で決まったことを、川の下流でただ見ているだけで、小びとたちのしたことを自分がやったこと、判断したことと錯覚している存在だという。
これが「受動意識仮説」である。
なぜそういう考えに至ったかというと、指を動かそうと思った時、動かすと意識より前から実は無意識が働き始めている、というリベットの実験から。
それを意識が補正して同時に起こっているように錯覚させている。
目に映ったものを認識することも、無意識がこれは丸い!赤い!美味しい!と反応したのちに「りんご」であることを認識する。
タイムラグがあるのを意識が瞬時に認識しているように補正している。
「意識」は「エピソード記憶」をするために存在する
意識が、もっとも上位に存在する中心的存在でないとしたら、なぜ意識は私が私であるという生きている証の役目を担っているのか。
並列分散処理をしている無意識をそのままの形で記憶すると、膨大でわけわからないものになってしまう。そこで、自分の行ったこと、注意を向けたことだけを「私」一人の体験とする「エピソード記憶」をする必要がある。
その「エピソード記憶」をするためにこそ「意識」が存在すると著者は言っています。
「リンゴは食べ物だ」という意味記憶だけでなく、「夕食はもう食べた」「去年の夏に家を建てた」といったエピソード記憶がないと、高度な認知活動をするには不便。
「私」は、エピソード記憶をする必然性から、心の中に生まれた機能なのである。ということは当然、「私」の一部分である「自己意識」も、エピソード記憶ができるようになってから進化の建て増し工事としてできあがっものなのだ。
心のクオリア
五感から入ってきた情報と、自己意識のように心の内部から湧き出てきた情報を、ありありと感じる質感が「クオリア」。
脳科学者の茂木健一郎氏は、物体である脳からどのようにしてクオリアが生まれるか、手がかりさえつかめない「意識」の最大の謎と言っている。
自分はどこまで私なのか。人間にとって、大腸菌は自分の一部?胃の中の食べ物は?血となり肉となれば自分になる?
自分と外の境界は、現象として考えるとあいまいなことがわかる。
「自分」の「身体」は「物体」だが、「自分」の「生命」は「現象」である。
生き生きとしたクオリアはみな錯覚
大脳内に、「生き生きとした感覚情報のクオリアも、<私>という自己意識のクオリアも、「意識」で感じるものとする」という錯覚の決まりが定義されているために、人は、意識下に感覚や自己意識の質感があるかのような幻想に浸っているに過ぎない。
人の触感覚や自己意識が、錯覚であるにしろ、どのように定義されたなら一人称的なクオリアを感じる意識体験になるのか、アルゴリズム上の疑問は残されている。
心の過去と未来
この章では、これまでの論をベースに、昆虫に心はあるか?という問いからロボットに心は作ることはできるか、さらに受動的な「私」という考えは、東洋的な世界観に似ているかもということが語られます。
「心の自動説」では、「私」は小びとたちの結果を受け取る受動的な存在。
欲や煩悩は「私」に付随するのではなく、小びとたちが行なう無意識の知情意の処理から生まれる。
自分の中心にある<私>という存在は、心の中から知情意や自分らしさや欲望を取り除いた、無個性で無に近い、小さく純粋な存在。
技術が進歩して、ロボットが生命化して、同じ<私>を持つ者となったら、人は悟るしかない。
平等で共存社会となるには、人はちっぽけで無力な存在であるけれども、<私>たちの心は大きな永遠の世界と一体であることを。
「小びと」=ニューラルネットワーク
ここまでの展開で比喩で表現してきた「しくみ」を、工学の言葉を使って整理・解説するパートが最後の章にまとめられている。
ニューラルネットワークとはどういうものか、フィードバックとフィードフォワード制御のしくみについて。
目標を持ってそれに近付いていこうとするフィードバック誤差学習。学習すると脳に内部モデルができ、どうすればいいか予測できるようになる。
運動の学習から思考まで、様々な脳の情報処理は、ニューラルネットワークによる計算として説明できると著者は言っています。
この本を読んで
私が私である意識は、自分の中心部にいて、思考、認識、行動、判断、能力のすべてを司っているように感じます。
でも、そうじゃないんだと。そんな偉そうな存在じゃない、ただ進化の工程でエピソード記憶をするために後付けされた、ささやかなモジュールなんだと。
実際のさまざまな生命活動は、無意識の小びとさん=ニューラルネットワークがせっせとしてくれていることなんだと。
私が私であるという「意識」というのは、脳の仕組みとして比喩すると、いろんなことを処理してくれている官僚たちが用意した答弁原稿を、ただ読み上げている大臣のようなもの、というのがわかった本でした。
本を読んで、「受動意識仮説」はなるほどと腑に落ちるものがあったけれど、心の質感であるクオリアの働きについては、まだもやっとしたままに感じました。
その部分は「幻想」とさらっと流されてしまっていて。
クオリアの謎については、この本を発行したあと、何冊か出ているようなので、そこまで読んでどう納得できるかを期待したいと思います。
『脳はなぜ「心」を作ったのか』以降に出版された前野隆司氏の関連補完本
- 錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫) [Amazonで見る]
- 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ~ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史 [Amazonで見る]
仮説を唱える前半を過ぎると、読みながら頭では別のことを考えるようになりました。
心の仕組みが解明されてロボットにも心があるようになったら、人とロボットはどう矯正していくのかという部分は、映画「ブレードランナー2049」で深淵に描かれていることだよな、と思ったり、モジュールとしての<私>がはかなく無個性で純粋なものという部分は、仏教の「般若心経」で語られている「空」の概念みたいだよな、と思ったり。
あとがきまで読むと、大乗仏教の「空」と「受動意識仮説」との類似性は読者から多く寄せられたようで、その後にこの件についての対談本も発行されたようです。
<私>という存在の永遠性って?
私たちが理解したいと願い、失うことを心から恐れていたものは、なんと、無個性でだれもが持つ、単なる<私>という錯覚のクオリアだったのだ。
だから、私たちはもう、死を恐れる必要はない。
なにしろ、私たちが失うことを恐れていた<私>は、実にちっぽけでささいな存在に過ぎないのだ。
(中略)
あなたの知情意と記憶の命は有限だが、あなたの<私>の命は、永遠に、確実に、受け継がれていくのだ。輪廻のように。
(中略)
あなたの<私>がなくなったって、世界中にあふれているたくさんの<私>は存続していく、という意味において、<私>は永遠だ。
<私>という存在だけが受け継がれていくというのは、種の存続のことを語っているのかな。だから安心なの?という点で、ちょっと置いていかれた気がしました。
宗教的な、個も宇宙も自然も一体のものという境地に至るということなら、その途中段階が自分には理解できませんでした。
個の違いはささいなものなのか
生きていくうえでは「ぼく」は「あなた」じゃない、「あなた」は「ぼく」じゃない。という大前提は、年を重ねるたび大切なことなんだとつくづく思います。
でもヒトの遺伝子は、他人と99.9%は類似していると言われています。
残りの0.1%にだけ、外見の差やかかりやすい病気のことが含まれているということです。
その0.1%のことに対して、私たちは多くの個体差をもって生きているんです。
意識の仕組みは同じであっても、それぞれの個体差ごとに心のクオリアは相当異なるはずです。
そのクオリアの差にストーリーを感じ、惹きつけられたり、拒否感を抱いたりしているはずです。
生きていく上で、私は私でしか存在していないのだから、ちっぽけな存在として認識しちゃうと、なげやりになってしまいそうです(そりゃ宇宙の中の存在としてはちっぽけだけど)
でも「たった0.1%だけ違う世界の中で生きている」と捉えると、平等・共生な社会で生きていくべきなんじゃと広い心を持てる気がします。
これこそ人によって、どこを軸にすれば、自分にとって豊かなクオリアを持って生きていけるか、の別の問題になっていくのでしょうね。
以前「21g」という映画がありました。
人が死ぬと、21gだけ軽くなるということから、命の重さをテーマにした傑作です。
脳の中で機能停止した「意識」は、モジュールとして質量があるのなら、消えてしまった21gという重さはなんなのだろう?それがクオリアなの?という思いも湧き上がりました。
まとめ
意識というものの存在がどう定義されるのか、を意識することができました。
また、脳というのは実にいろんなことをやってるのだな、ということ。運動が上手に行えるようになるため、内部モデルが脳の中に作られるというのが面白く読めました。
そして、もっと多くの知識が必要なのだと、勉強が必要なのだということがわかりました。
クオリアの不思議については興味がありますし、仏教ほか哲学・思想の体系と内容、心理学についても。
私は知らずに生きてきてしまいましたが、この本が書かれたのは2004年です。いまならもっと「AI」との関係にページを割いていたかもしれません。逆に「AI」という言葉が登場せず、ニューラルネットワークとして説明されているのが新鮮に思えました。
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*AIについて書かれた前野氏の2018年出版の本:
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